この成功を受けて、1972年には「ラ・リネア(La Linea)」が漫画コミックの連載にもなり、数々の国際的な賞を受賞しました。続いてポスター、カレンダー、商品化されたグッズも登場しました。1980年代には、「ラ・リネア」は毎晩20時のニュース(現在のRAI 1)の直前に放送される「翌日のアルマナッコ(Almanacco del giorno dopo)」内で短いストーリーを展開しました。2007年初頭、ラゴスティーナは長年使われていたロゴを変更し、その同年3月にはオズヴァルド・カヴァンドリが亡くなりました。
オスヴァルド・カヴァンドリは1920年1月1日、ガルダ湖近くのトスコラーノ・マデルノで生まれました。数年後、家族と共にミラノに移り住み、ここで成長し、2007年3月3日に亡くなるまで生活しました。彼は専門学校に通い、1938年にはアルファ・ロメオ(Alfa Romeo)に技術描画者として就職し、その後サロンノ(Saronno)のCEMSAにも勤務しました。戦時中、彼はその時代の生活様式を題材にした漫画を発表し、1944年には新聞の広告に応じてパゴット・フィルム(Pagot Film)のチームに参加しました。ここでアニメーターとしての教育を受け、『ラッラ、ピッコラ・ラッラ(Lalla, piccola Lalla)』や、イタリア初の長編アニメ映画『ダイナマイト兄弟(I fratelli Dinamite)』の制作に携わりました。
*CEMSA(チェムサ、Costruzioni Elettro Meccaniche di Saronnoの略)は、1925年から1948年まで活動していたイタリアの電気機械建設および蒸気機関車・電気機関車の製造会社です。
アニメーション映画への情熱が深まったカヴァンドリは、1950年代に幼馴染のウーゴ・モローニ(Ugo Moroni)と共に「プピランディア(Pupilandia)」という手作りの人形アニメーション映画の制作会社を立ち上げました。1950年から1957年の間に、映画広告用に15本以上の短編映画を制作し、その中には『ピノキオ(Pinocchio)』、『西部の果て(Laggiù nel Far West)』、『小さな戦争(La piccola guerra)』、そして『新しい赤ずきん(Il nuovo Cappuccetto Rosso)』などが含まれます。これらの映画では、カヴァンドリとモローニが人形の制作からカメラ技術の向上に至るまで、すべての制作過程を手がけました。
1965年から1967年には、マルコ・ビアッソーニ(Marco Biassoni)と共に、ランチロットとアーサー王(Lancillotto e Re Artù)の広告用短編映画を制作しました。この経験を経て、1968年11月、彼は最初のストーリーボードを描き、最初は「ミスター・マーク(Mr. Mark)」という名前でキャラクターを創造しました。
1975年には「ラ・リネア」のストリップがイタリアの週刊誌『イル・ジョルナリーノ(Il Giornalino)』に掲載されました。1977年には、広告から独立した最初のシリーズが制作されましたが、イタリアのテレビネットワークからは徐々に姿を消し、逆に他のヨーロッパ諸国では大きな成功を収めました。1980年には、カヴァンドリはイラストレーターのグループ「キポス(Quipos)」とその創設者マルセロ・ラヴォーニ(Marcelo Ravoni)と共にプロフェッショナルな活動を開始し、2007年のカートゥーニクス(Cartoomics)で「漫画の英雄(Eroe del Fumetto)」として表彰されました。このパートナーシップは、深い尊敬と友情に基づいています。
80年代と、オスヴァルドの死
1980年、オスヴァルド・カヴァンドリは作者アルタン(Altan)と協力し、26エピソードからなるテレビシリーズ「ラ・ピンパ(La Pimpa)」の監督を担当しました。その後、カヴァンドリはマリオ・モンテヴェルディ(Mario Monteverdi)のエピグラム集『ストリエッリネ・モラーリ(Storielline molari)』の挿絵を担当しました。続いて、カヴァンドリは『ラ・リネア・スーパースター(La Linea Superstar)』という本を出版し、1992年には出版社スペルリング・クプファー(Sperling & Kupfer)から『ゴルフは真剣な遊び(Il golf è una cosa seria)』という本が出版され、ラ・リネアがゴルフのルールを説明しました。また、サティリックな文学作品に基づくヴィネット集『ヴェルシ・エ・ヴェルサッチ(Versi e versacci)』も発表されました。このように、ラ・リネアのイラストを使用した出版物は数多く登場し、その後もガルッチ(Gallucci)出版社などから新たな作品が発表されました。
時折、ラ・リネアはイタリアのテレビ番組『ガラゴール(Galagoal)』(TMC)や『ピノキオ(Pinocchio)』(RAI)に短期間登場することもありました。1998年、カヴァンドリはカルロ・スクィラント(Carlo Squillante)の招待で、ANU(イタリア全国ユーモア作家協会)に参加し、ポルト・ヴァルトラヴァーリア(Lago Maggiore)で開催された「フェスティヴァルトラヴァーリア・デル・アルテ・レッジャ(FestiValtravaglia dell'Arte Leggera)」の8回の開催に参加し、ミラノのサイエンス・テクノロジー博物館(Museo della Scienza e della Tecnologia di Milano)で開催された「レオナルド・ダ・ヴィンチのベスティアリオ(Bestiario di Leonardo da Vinci)」展(2000年)や、リヴィエラ・デル・ガルダ(Riviera del Garda)のユーモアフェスティバル、ガッララーテ(Gallarate)のユーモア展にも参加しました。同年、カヴァンドリはベルリンの保険会社アリアンツ(Allianz)のオフィスの壁をラ・リネアで飾るために選ばれました。
オスヴァルド・カヴァンドリはミラノで2007年3月3日に亡くなるまで、そこに住んでいました。
オスヴァルド・カヴァンドリの受賞歴
オスヴァルド・カヴァンドリは、1970年代にアヌシー(Annecy)やザグレブ(Zagabria)のアニメーションフェスティバルで賞を受賞しました。また、1973年にはボルディゲラ(Bordighera)の国際ユーモアサロンでユーモア文学のトロフィー「パルマ・ダ'オーロ(Trofeo di Palma d'Oro)」を、1987年には「ダッテロ・ドーロ(Dattero d'Oro)」をテーマとして受賞しました。
2002年と2006年には、ラジオ・テレビのアニメーション祭典「カートゥーン・オン・ザ・ベイ(Cartoons on the Bay)」のポジターノで「プルチネッラ賞(Pulcinella Award)」のキャリア賞を受賞しました。
2015年には、ブレシアの「ムジル - 産業と労働の博物館(Musil - Museo dell'Industria e del Lavoro)」で『VIVA CAVAndoli!』という展示が行われました。この展示では、オスヴァルド・カヴァンドリと『ラ・リネア』に捧げられた100点以上のイラストが展示され、世界的に有名なアーティストたちによって描かれたものです。また、カヴァンドリの制作活動に関連する写真、オリジナルのスケッチ、作業資料(ストーリーボード、アイデアのラフスケッチ、記念品、オブジェクトなど)も紹介されました。
映像作品
オスヴァルド・カヴァンドリは、1983年にクイポス社が制作した『ラ・ピンパ(La Pimpa)』の監督を務めました。このシリーズは、ラジオ・イタリア(Rai)向けに制作され、全26エピソード(各5分)のアニメーションが放送されました。『ラ・ピンパ』のキャラクターはロベルタ・パラディーニ(Roberta Paladini)が声を担当し、アルマンド(Armando)はヴィットリオ・ディ・プリマ(Vittorio Di Prima)が担当しました。ただし、エピソード『アフリカへの旅(Un viaggio in Africa)』では、ピンパの声がクリスティーナ・マスコロ(Cristina Mascolo)、アルマンドの声がセルジオ・レンダ(Sergio Renda)に変わっています。