Marco Polo マルコ・ポーロ
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イタリア語 絵本マップ 「マルコ・ポーロ 復路」を読む 対象年齢5歳以上【A1】
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イタリアのリラ紙幣 1000リラ マルコ・ポーロ [YHBA012]
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イタリア語で読む、マルコ・ポーロの東方見聞録 対象年齢7歳 【B2】
6,500円
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イタリア語で読む、マルコ・ポーロの東方見聞録 対象年齢9歳 【B2】
3,100円
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イタリア語で読む、マルコ・ポーロの東方見聞録 【B2】【C1】
8,500円
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イタリア語で読む、マルコ・ポーロの東方見聞録 【B2】【C1】
3,600円
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イタリア語で読む、マルコ・ポーロの東方見聞録【C1】【C2】
3,500円
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イタリア語で読む、マルコ・ポーロの東方見聞録 【B2】【C1】
2,700円
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16世紀のマルコ・ポーロの肖像画
マルコ・ポーロの姿を伝える最も古い肖像の一つ。
目次
- マルコ・ポーロ(Marco Polo)
- 「ミリオーネ(東方見聞録)」という異名の由来
- ポーロ家の紋章
- 幼少期
- シルクロードを巡る旅
- ヴェネツィアへの帰還とジェノヴァでの投獄
- 結婚
- 証言
- 死去
- 『ミリオーネ(Il Milione)(東方見聞録)』
- 争点 生誕地
- 争点 家系の起源
- 争点 中国への旅
- マルコ・ポーロの中国での役割
- タタールの妻
マルコ・ポーロ(Marco Polo)(1254年9月15日 – 1324年1月8日)は、ヴェネツィア共和国出身の旅行家、作家、外交官、商人です。彼の壮大な旅の記録は、『東方見聞録(Il Milione)』としてまとめられ、13世紀末のヨーロッパにおけるアジアの重要な地理的知識を伝える貴重な書物となりました。
マルコ・ポーロはヴェネツィアの貴族の家に生まれ、1271年に父のニッコロー・ポーロ(Niccolò Polo)と叔父のマッテオ・ポーロ(Matteo Polo)と共に旅に出ました。彼らはシルクロードを通り、当時「カタイ」と呼ばれていた中国へ向かい、約24年もの間、アジアを巡りました。マルコ・ポーロはモンゴル帝国の皇帝クビライ・カーン(Kubilai Khan)の宮廷で顧問や外交官として仕え、その文化や風習を深く学びました。
1295年、マルコ・ポーロはヴェネツィアに帰国し、貿易業を営みます。しかし1296年、ヴェネツィアとジェノヴァの戦争で捕虜となり、ジェノヴァの牢獄に囚われました。その際、彼はピサのルスティケッロ(Rustichello da Pisa)という作家に自身の旅の体験を語り、それが『世界の記述(Devisement dou monde)』、後に『東方見聞録』として知られる書物になりました。
彼は後にヴェネツィアの貴族ドナータ・バドエール(Donata Badoer)と結婚し、ファンティーナ(Fantina)、ベレッラ(Belella)、モレータ(Moreta)という3人の娘を授かりました。また、結婚前に生まれたとされる娘アニェーゼ(Agnese)もいたといわれています。
1324年にマルコ・ポーロはヴェネツィアで亡くなり、サン・ロレンツォ教会(Chiesa di San Lorenzo)に埋葬されました。しかし、16世紀末の再建工事の際に彼の遺骨は失われてしまいました。
マルコ・ポーロは、最初に中国に到達したヨーロッパ人ではありませんが、彼の旅の記録は後世の探検家たちに多大な影響を与えました。クリストフォロ・コロンボ(Cristoforo Colombo)も『東方見聞録』を愛読し、それが彼の航海のインスピレーションとなったと言われています。また、マルコ・ポーロの詳細な記述は、フラ・マウロ(Fra Mauro)による世界地図の作成にも貢献しました。
マルコ・ポーロの冒険は、未知の世界への好奇心を刺激し、今なお多くの人々に影響を与え続けています。彼の物語を通じて、中世の世界観や交易、文化交流の歴史に触れてみてはいかがでしょうか。
「ミリオーネ(東方見聞録)」という異名の由来
ヴェネツィアの公文書には、マルコ・ポーロの名前が「マルコ・パウロ・デ・コンフィニオ・サンクティ・ヨハンニス・グリゾストミ(Marco Paulo de confinio Sancti Iohannis Grisostomi)」として記録されています。これは、彼がヴェネツィアのサン・ジョヴァンニ・グリゾストモ地区の住人であったことを示しています。
しかし、彼の著作『マルコ・ポーロの書、通称ミリオーネ(Il libro di Marco Polo detto il Milione)』のタイトルには曖昧な点があります。一部の研究者によれば、「ミリオーネ(Il Milione)」は本の通称ではなく、マルコ・ポーロ自身の異名だったと考えられています。
15世紀の人文学者ラムージオ(Ramusio)は、マルコ・ポーロが「大ハーン(モンゴル皇帝)の富を語る際、収入を1,000万(ミリオーネ)金貨単位で話していたため、人々は彼を"マルコ・ミリオーネ(Messer Marco Milioni)"と呼ぶようになった」と記しています。
また、19世紀の学者ルイージ・フォスコロ・ベネデット(Luigi Foscolo Benedetto)は、「ミリオーネ」という名前は著者の愛称であり、「エミリオーネ(Emilione)」という名前の短縮形ではないかと推測しています。さらに、ヤコポ・ダ・アクィ(Jacopo da Acqui)の記述にも、「ヴェネツィアのドミヌス・マルクス(マルコ・ポーロのこと)、通称ミリオーネ」とあります。
ヴェネツィア共和国の公文書には、「ミリオーネ」という異名が公式に記録されており、少なくとも一度はマルコの父にも使われた形跡があります。ただし、ミリオーネ家と呼ばれるポーロ家の一族全員がヴェネツィア貴族だったかどうかは定かではありません。しかし、マルコ・ポーロの父である「マルコ・ポーロ・イル・ヴェッキオ(Marco Polo il Vecchio)」、その兄弟たち、そしてその子孫たちは確かに商人階級に属していました。
現在、ヴェネツィアにある「コルテ・セコンダ・デル・ミリオーネ(Corte Seconda del Milion)」は、かつてマルコ・ポーロの父ニッコロ(Niccolò)と叔父マッテオ(Matteo)が住んでいた家の隣に位置しており、その後、現在のテアトロ・マリブラン(Teatro Malibran)が建てられました。
ポーロ家の紋章
マルコ・ポーロの家系を象徴する紋章。
家系
ポーロ家の紋章
マルコ・ポーロ(Marco Polo)の祖先について記録が残っている最も古い人物は、彼と同名の大叔父です。この大叔父は、金を借りてコンスタンティノープルに向かう船の指揮を執った人物でした。
マルコの祖父であるアンドレア(Andrea)は、ヴェネツィアのサン・フェリーチェ(San Felice)地区に住んでおり、3人の息子をもうけました。それが、マルコ・ポーロ・イル・ヴェッキオ(Marco "il Vecchio")、マッテオ(Matteo)、そしてマルコ・ポーロの父であるニッコロ(Niccolò)です。
1260年、ニッコロとマッテオは、当時ヴェネツィア人の支配下にあった東ローマ帝国領コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)で貿易業を営んでいました。彼らは財産を宝石に換え、アジアへの長い旅に出発しました。ブハラ(現在のウズベキスタン)や中国のトルキスタンを経由し、モンゴル帝国の新たな皇帝となったクビライ・ハーン(Kublai Khan, 在位1260-1294)の宮廷にたどり着きました。
この旅は、結果的に彼らにとって幸運でした。というのも、1261年にミカエル8世パレオロゴス(Michele VIII Paleologo)がコンスタンティノープルを奪還し、ビザンツ帝国を再興すると、ヴェネツィア人の排除が行われたからです。
1266年、ニッコロとマッテオは西方へ戻ることを決意し、1269年にはローマへ到着しました。その際、彼らはクビライ・ハーンからの使節団を伴い、教皇にモンゴルへ宣教師を派遣するよう要請する大使としての役割も担っていました。
ヴェネツィアの「ミリオーネの館」(Corte Seconda del Milion)
マルコ・ポーロがかつて暮らしたとされる場所。
ニッコロ&マッテオ・ポーロとローマ教皇グレゴリウス10世
マルコ・ポーロの父と叔父がローマ教皇に謁見した場面。
幼少期
ニッコロとマッテオ・ポーロ、教皇グレゴリウス10世(Gregorio X)に謁見
マルコ・ポーロ(Marco Polo)の幼少期についてはほとんど記録が残っておらず、確実なのは彼がヴェネツィアで育ったということだけです。
母を幼い頃に亡くし、父ニッコロ(Niccolò)は後にフロラディーザ・トレヴィザン(Floradisa Trevisan)と再婚しました。そのため、マルコは叔父たちによって養育されました。
彼は貴族の身分にふさわしい教育を受け、航海術、計算(外国通貨の換算を含む)、商取引の知識を学びました。ただし、ラテン語を理解していたかどうかは明らかではありません。
トランクイッロ・クレモーナ作「フビライ・ハンの宮廷にて」(1863年)
この絵画は、マルコ・ポーロがフビライ・ハンの宮廷で謁見する場面を描いたものです。
彼は背筋をまっすぐに伸ばし、細身の体つきで堂々とハンを見つめています。
一方、彼の父ニッコロと叔父マッテオは、宮廷の洗練された作法には慣れておらず、戸惑いを見せています。
ニッコロは威厳を示すために豪華なオコジョの毛皮のストールをまとっていますが、マッテオはその華美さを少し恥ずかしく思っている様子です。
この絵は、マルコ・ポーロの果敢な姿勢と、異国の文化に順応しようとする家族の様子を巧みに表現しています。
マルコ・ポーロの旅路
彼の壮大な旅の軌跡を示す地図。
シルクロードを巡る旅
1271年、ニッコロ(Niccolò)とマッテオ・ポーロ(Matteo Polo)は再び旅立つことを決意し、今回は若きマルコ・ポーロ(Marco Polo)を同行させました。資料によって異なるものの、彼の年齢は12歳から19歳の間とされていますが、実際には17歳であったと考えられています。
旅の初めに彼らはアッコ(Acri)で数か月を過ごし、そこで当時の大司教であり、後の教皇グレゴリウス10世(Gregorio X)となるテダルド・ヴィスコンティ(Tedaldo Visconti)と会話を交わしました。マルコは彼のことを「テダルド・ダ・ピアチェンツァ(Tedaldo da Piagenza)」と呼んでいます。ポーロ一家は以前の中国旅行でフビライ・ハン(Kublai Khan)からローマ教皇宛の書簡を託されていたものの、長きにわたる教皇不在のため失望して帰国した経緯がありました。その後、彼らは旅の途中でようやく教皇が選出されたことを知り、急いでエルサレムへと戻りました。新たに即位したグレゴリウス10世は、彼らにフビライ・ハン宛の書簡を託し、さらに2人のドミニコ会修道士であるグリエルモ・ダ・トリポリ(Guglielmo da Tripoli)とニコラ・ダ・ピアチェンツァ(Nicola da Piacenza)を同行させました。
この旅の詳細は、後にマルコ・ポーロ自身が著した『東方見聞録(Il Milione)』に記されています。彼らは、後に「シルクロード」と呼ばれるようになる道を通り、約3年半の旅の末、ついに当時建設中であったフビライ・ハンの夏の都「上都(Xanadu)」、現在の中国・内モンゴル自治区のチョーメンフ(Çemenfu)へ到達しました。
カタイ(中国)に到着したマルコ・ポーロはフビライ・ハンに謁見し、その才能を見出されます。ハンの信頼を得たマルコは、宮廷の顧問、さらには外交官として仕えることになりました。彼はタタール人の言語や習慣を学び、ハンの命を受けてインド、雲南、チベット、ビルマなどへ使節として派遣されました。これらの地域は、現代においても決して容易に移動できる場所ではなく、当時の旅がいかに困難を極めたかがうかがえます。
「ラヤッツォ港の風景」― マルコ・ポーロが1271年に訪れた港(『驚異の書』より)
このイラストは、中世の旅行記『驚異の書(Le Livre des Merveilles)』に描かれたラヤッツォ(現在のトルコ・ユムルタルク)の港の風景です。
マルコ・ポーロは1271年にこの港を訪れました。当時のラヤッツォは、シルクロードと地中海を結ぶ重要な貿易拠点で、多くの商人が行き交う活気ある港町でした。ヴェネツィアの商人たちもこの地で取引を行い、東西の文化が交わる場となっていました。
この絵は、マルコ・ポーロが見たであろう中世の港町の様子を伝える貴重な資料の一つです。
ジェノヴァのサン・ジョルジョ宮殿
マルコ・ポーロが囚われの身となった場所。ここでルスティケッロと共に『東方見聞録(ミリオーネ)』を執筆した。
ヴェネツィアへの帰還とジェノヴァでの投獄
マルコ・ポーロ(Marco Polo)がヴェネツィアへ帰還したのは、出発から24年後の1295年11月9日のことでした。彼らの長い不在と異国風の姿に、親族たちは最初、彼らが本当にニッコロ(Niccolò)、マッテオ(Matteo)、そしてマルコであるとは信じませんでした。しかし、服の中に隠して持ち帰った貴重な宝石が彼らの証明となったと伝えられています。
その後の有名な伝説によると、1298年9月5日、マルコ・ポーロはヴェネツィア艦隊の一員として90隻の船で戦い、ジェノヴァ軍に敗北しました。この戦いはクルジュラの海戦(Battaglia di Curzola)として知られています。しかし、実際には彼がクルジュラで捕らえられたわけではなく、一部の学者によれば、より可能性が高いのはアレクサンドレッタ湾(Golfo di Alessandretta)での海戦後、キリキア(Cilicia)のラヤッツォ(Laiazzo)でジェノヴァ軍に捕らえられたという説です。
投獄中、彼はピサのルスティケロ(Rustichello da Pisa)と出会いました。ルスティケロが「14年間投獄されていたのか、あるいは自由に出入りしていたのか」は定かではありませんが、彼がマルコ・ポーロの語る冒険譚をまとめ、執筆したことはほぼ確実とされています。こうして書かれた『東方見聞録(Il Milione)』はヨーロッパ中で瞬く間に評判となりました。
1299年8月、ポーロはついに解放され、ヴェネツィアへ帰還しました。その間に、父ニッコロと叔父マッテオは、カンナレージョ地区(Cannaregio)のサン・ジョヴァンニ・クリソストモ(San Giovanni Crisostomo)にある「コルテ・デル・ミリオン(Corte del Milion)」と呼ばれる大邸宅を購入していました。この購入資金は、おそらく東方から持ち帰った宝石や商取引の利益によるものでした。
その後もポーロ家の商会(Compagnia Polo)は活動を続け、マルコ・ポーロ自身も裕福な商人となりました。彼と叔父マッテオは新たな遠征を資金援助しましたが、彼ら自身が再びヴェネツィア領を離れ、シルクロードやアジアへ旅立つことはなかったと考えられています。
結婚
1300年、マルコ・ポーロ(Marco Polo)はヴェネツィアの貴族であるドナータ・バドエール(Donata Badoer)と結婚しました。彼女は商人ヴィターレ・バドエール(Vitale Badoer)の娘であり、二人の間には3人の娘が生まれました。長女ファンティーナ(Fantina)はマルコ・ブラガディン(Marco Bragadin)と、次女ベレッラ(Belella)はベルッチョ・クエリーニ(Bertuccio Querini)と結婚しました。三女モレータ(Moreta)についての詳細はあまり知られていません。
2022年2月7日、カ・フォスカリ大学(Università Ca' Foscari)のマルチェッロ・ボロニャーリ(Marcello Bolognari)によって、新たな歴史資料が発見されました。この資料によると、マルコ・ポーロにはドナータ・バドエールとの結婚前に生まれた娘、アニェーゼ(Agnese)がいたことが判明しました。アニェーゼは若くして亡くなり、1319年7月7日に作成された遺言書の中で父マルコ・ポーロの名を挙げ、彼に自身の遺志を託しました。彼女の遺言は、主に夫のニッコロ(通称ニコレット)(Nicolò detto Nicoletto)と、彼らの子供であるバルバレッラ(Barbarella)、パポン(Papon)、フランチェスキーノ(Franceschino)に向けられたものでした。
パドヴァの哲学者・天文学者ピエトロ・ダバーノ
マルコ・ポーロと同時代の知識人。
ヴェネツィアのマルコ・ポーロの家(カンナレージョ地区)
ヴェネツィアのカンナレージョ地区、カッレ・デッルフィツィオ・デッラ・セダに位置するとされるマルコ・ポーロの家。この場所は、彼が生まれ育ち、遠征の後に帰郷したと考えられています。
現在、かつての邸宅の跡地には、次のようなラテン語の碑文が刻まれています。
AEDES PROXIMA THALIAE CULTUI MODO ADDICTA / MARCI POLO P V ITENERUM FAMA PRAECLARI / IAM HABITATIO FUIT
これは、以下のように訳されます。
「かつてタリア(芸術・演劇の女神)に捧げられたこの建物は、偉大な旅人として名を馳せたマルコ・ポーロがかつて住んだ家である。」
この場所は、後に劇場「テアトロ・マリブラン」に改築されましたが、ヴェネツィアの歴史的遺産の一つとして今も多くの人々に知られています。
マルコ・ポーロの家の記念碑(テアトロ・マリブラン裏手)
ヴェネツィアのテアトロ・マリブラン(マリブラン劇場)の裏手には、マルコ・ポーロの邸宅跡を示す記念碑(タルガ・コメモラティーヴァ)が設置されています。
この地は、かつてポーロ家の住居があったとされる場所であり、偉大な探検家マルコ・ポーロが幼少期を過ごし、後に彼の壮大な旅の出発点となった可能性のある場所です。
現在では、彼の功績を称える碑が建てられ、ヴェネツィアを訪れる人々に歴史の一端を伝えています。
証言
パドヴァの哲学者・医師・占星術師であるピエトロ・ダバーノ(Pietro d'Abano)は、マルコ・ポーロ(Marco Polo)と会話を交わし、彼が旅の途中で観測した天体について話を聞いたと伝えています。マルコは、南シナ海を航行中に、袋のような形(ut sacco)をした星を目撃したと述べ、それを大きな尾(magna habet caudam)を持つ星として描きました。ピエトロ・ダバーノはこれを、南半球にも北極星に相当する星が存在する証拠と考えましたが、実際には彗星であった可能性が高いとされています。
天文学者たちは、13世紀末のヨーロッパでは彗星の観測記録がないとする一方で、中国やインドネシアでは1293年に彗星が観測された記録があると指摘しています。しかし、この出来事は『東方見聞録』(Il Milione)には記されていません。ピエトロ・ダバーノはこの星のスケッチを、彼の著書『Conciliator Differentiarum, quæ inter Philosophos et Medicos Versantur』に保存しました。同じ文書には、鼻に角を持つ大きな動物の記述もあり、これは現在ではスマトラサイと考えられています。マルコ・ポーロ自身がこの動物に特定の名称を与えたとは記録されておらず、『東方見聞録』でこれがユニコーン(一角獣)として描かれたのは、おそらくルスティケロ・ダ・ピサ(Rustichello da Pisa)による解釈だったと考えられています。
ピエトロ・ダバーノはマルコ・ポーロの話に熱狂し、自らの理論の裏付けになると考えていましたが、彼の旅行記は必ずしも歓迎されたわけではなく、多くの人々の疑念を招きました。1302年から1314年の間にラテン語訳を行ったドミニコ会の修道士フランチェスコ・ピピーノ(Francesco Pipino)は、記述の信憑性を保証する必要があると感じたのか、次のように記しました。
「彼は厳かにその本の真実性を誓い、"賢明で、名誉ある、誠実な男"であると述べた。」
—リナルド・フリン(Rinaldo Fulin)
また、修道士ジャコポ・ダクィ(Jacopo d'Acqui)も同様に、
「当時の人々が彼の話を疑っていた理由を説明した後、マルコ・ポーロが死の直前に"自分が見たことの半分も語っていない"と断言したことを伝えている。」
—リナルド・フリン
彼がドミニコ会の修道士たちと深い関係を持っていたことから、一部の研究者は
「彼らが、まるで現代の編集者のように、マルコの著作の校正に関与した可能性がある。」
—アントニオ・モンテフスコ(Antonio Montefusco)
と推測しています。
1305年、マルコ・ポーロはヴェネツィアの公文書に、地元の海軍の船長の一人として記録され、税金の支払いに関する記述が残されています。しかし、同時期の彼の活動については不明な点が多く、1300年の反貴族派の反乱に関与した同名の人物と、彼の関係は不明です。また、1310年のティエポロの陰謀(la congiura del Tiepolo)には、ジャコベッロ(Jacobello)とフランチェスコ(Francesco)というポーロ家の一族が関与していましたが、これは彼の直系ではなく分家の人物であったとされています。
1307年、フランス王フィリップ4世(フィリップ美公)の弟であるシャルル・ド・ヴァロワ(Charles de Valois)がヴェネツィアを訪れました。彼がマルコ・ポーロの旅行記を求めた際、マルコは「最初の写本」をテオバルド・ド・セポワ(Théobald de Cepoy)に渡したとされています。
1309年から1310年にかけて、マルコは亡くなった叔父マッテオ(Matteo)の遺産分配に関与しました。1319年には、亡き父の所有していた土地を相続し、1321年には妻ドナータ(Donata)の家族が所有する土地の一部を購入しています。1323年には、ヴェネツィアのサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ修道院(Santi Giovanni e Paolo)のドミニコ会修道士たちがジョヴァンニ・ダッレ・ボッコレ(Giovanni dalle Boccole)の遺産を受け取る際の証人として名を連ねています。
死去
1323年、マルコ・ポーロは病にかかり、床に伏せたままで動けない状態となりました。1324年1月8日、死期が迫る中、家族の女性たちに呼ばれてサン・プロコロ教会の神父ジョヴァンニ・ジュスティニアーニ(Giovanni Giustiniani)に最期の遺言を口述しました。マルコは自身の財産を家族や複数の宗教機関(サン・プロコロ教会や、後に彼が埋葬されるサン・ロレンツォ教会を含む)、さらには彼が所属していたギルドや兄弟団に分け与えました。その他にも、200ソルディを給料として公証人のジュスティニアーニに支払い、アジアから連れてきたタタール人の召使いであるピエトロ(Pietro)に100リラ・ヴェネツィアーナを与え、自由を与えるとともに結婚のために持参金を提供しました。
マルコ・ポーロの死の日付は不確かです。彼の遺言はサン・プロコロ教会に保管されており(署名はなく、証人の確認のみで実行されたため、「signum manus」形式で承認されました)、マルコ・ポーロの死は6月9日とされていますが、いくつかの説では遺言書が作成されたその日、すなわち1324年1月8日に彼は亡くなったとも伝えられています。
彼の遺体は、16世紀末にサン・ロレンツォ教会が再建された際に失われました。
1598年、ポーロ家の家は火事で焼失しました。その後、約1世紀後にその場所にサン・ジョヴァンニ・グリソストモ劇場が建てられ、現在ではマリブラン劇場(Teatro Malibran)として知られています。1998年、ヴェネト州の考古学遺産保護局が行った発掘調査で、ムラーノの紫ガラスの貴重な遺物を含む数多くの遺物が発見されました。
『ミリオーネ(Il Milione)』
『ミリオーネ』は何度も写本され、翻訳され、印刷技術が普及する前に記録されたものだけでも150以上の写本があり、その後の版数は数えきれません。『ミリオーネ』の写本は世界中に保存されています。特に美しい挿絵が特徴的なのは、フランス国立図書館に保管されている『2810 Libro delle meraviglie』です。セビリアのアルカサルにあるラテン語版の写本 には、クリストフォロ・コロンブのとされる注釈が記されています。
このテキストは、15世紀に科学界で注目を集めました。
『ミリオーネ』は、三人のポーロ一族が辿ったシルクロードのルートを詳細に記録しています。彼らはユーラシア大陸の内陸へ向かい、アナトリアとアルメニアを越えて進みました。その後、ティグリス川沿いに進み、おそらくモスルとバグダッドを通過しました。
イランのタブリーズを通り、ペルシャのヤズドを経て、オルムズ港まで到達しましたが、その先は海路での移動を計画していた可能性もあります。しかし、彼らは陸路を選び、ダシュト・エ・ルト砂漠を横断し、その後ホラーサーンに到達しました。この地域では、イスラム教の「イスマイール派」の教団と接触し、マルコはその指導者である「山の老賢者(Veglio della Montagna)」として知られるハサン・イ・サッバーハを記述しています。
現代のアフガニスタンで、彼はスプンガ(現在のシェバーガン)、タヒカン(おそらく現在のタロカン)、バルフ、そして「バラシャム」(バダフシャン)を記述しています。彼らはカシミールを越え、ワハーンを通過しました。その後、パミール山脈を越えてサマルカンドに向かい、ウズベキスタンに入って「大トルコ」(トルキスタン)へと進みました。
その後、タリム盆地に向かい、タンガット(現代のタングート)に到達しました。その後、チンギタラス(現代の新疆ウイグル自治区)で火に強い物質の製造を目撃しました。彼らはその後、張掖(Zhangye)、そしてカラコルムに到達しました。次に黄河の北岸を進み、最後に元朝のクビライ・カーンが最近建設したばかりの都市である「シャトゥ」(Xanadu)に到達しました。
『驚異の書(リーヴル・デ・メルヴェイユ)』より
マルコ・ポーロの『驚異の書(Le Livre des Merveilles)』には、彼が訪れたとされる遠方の地に関する数多くの記述が残されています。その中の一節には、彼が暑さの厳しい地域について述べた記録があります。
「ここは非常に暑く、とても耐えられるものではない。(…)ここの人々は皆、男性も女性も黒く、裸で過ごしている。ただ、白い布で最小限の部分を覆うのみである。彼らは放蕩を罪とは考えていない。」
この記述は、ポーロがアジアやアフリカの文化をどのように見ていたのかを示す興味深い一例です。彼の記録は、当時のヨーロッパでは未知の土地や人々の暮らしを伝える貴重な資料となりました。
クロアチア・クルジュラ島の「マルコ・ポーロの家」
観光名所として知られるが、実際には彼の時代より約200年後に建てられたもので、歴史的な根拠はない。
争点
生誕地
マルコ・ポーロの生誕地として、時折クルゾラ島(現在のクロアチア、当時はヴェネツィア共和国の領土)が挙げられることがあります。この主張は、1856年にダルマチアの歴史家シメオーネ・グリュビッチによる著作に初めて登場した伝説に基づいています。しかし、この説を裏付ける適切な歴史的研究は存在せず(そのため根拠に欠けることが判明しています)、2013年にはこの主張が科学的に分析され、その真実性が否定されました。分析では、この伝説を「純粋な偽造」と見なすことができ、「文化遺産の窃盗」とも言えると述べられています。
この主張は、クロアチアがオーストリア帝国の一部であった時期に遡りますが、現在でもクルゾラ島を観光地として宣伝するために有効であるとの理由から支持されています。1996年から、毎年夏にクルゾラ島で「マルコ・ポーロ・フェスティバル」と呼ばれる音楽とワインの祭りが開催され、著名な「クルゾラ出身の人物」としてのマルコ・ポーロを祝っています。クロアチア観光局は2008年から、クロアチアを「マルコ・ポーロの故郷」として宣伝しています。2011年には、元クロアチア大統領のスティペ・メシッチが、中国の楊州に「マルコ・ポーロ」に捧げた博物館の開館式を行いました。
家系の起源
ポーロ家の起源として、ダルマチアのセベニコから来た可能性がしばしば言及されます。この説は16世紀の系譜学者マルコ・バルバーロによって提案されましたが、ヴェネツィアの歴史家アルヴィーゼ・ゾルツィによって根拠がないとされました。実際、ポーロ家は971年からヴェネツィアに存在していたことが確認されています。
18世紀に描かれたタタール衣装のマルコ・ポーロ
遊牧民族の服装をまとった姿が描かれている。
中国への旅
懐疑論者たちは、長い間マルコ・ポーロが自らの著書をうわさに基づいて書いたのではないかと疑問を呈してきました。彼らは、いくつかの重要な場所についての詳細な記述が欠けていることや、中国の習慣や建造物についての言及が不足していることを根拠にこの懐疑論を展開しました。例えば、ポーロが紙幣や石炭の燃焼については言及している一方で、万里の長城については言及していません。この欠如は17世紀半ばに初めて指摘され、18世紀半ばには彼が中国に到達したこと自体がなかったのではないかという議論が提起されました。後に、ジョン・W・ヘーガーのような学者は、ポーロが中国南部を訪れていない可能性があると主張しました。なぜなら、彼の記述における中国南部の都市に関する詳細が、中国北部の都市に関するものに比べて乏しいからです。また、ドイツのハーバート・フランケは、ポーロが中国に行ったこと自体がなかったのではないかと仮定し、彼の話がペルシャの情報源に基づいている可能性を指摘しました。懐疑論者の中でも特に有名なのは、フランセス・ウッド(英国図書館中国部門のキュレーター)とデイヴィッド・セルボーン(英国の政治哲学者、社会評論家、歴史家)です。特にウッドは、ポーロが政府の職に就いていたと述べている一方で、ポーロ一家が中国の文献に一切登場しないことを指摘しています。また、『ミリオーネ』には万里の長城のほかにも、茶の伝統や縦書きのシステム、印刷技術、陶磁器、箸の使用、女性の足を縛る習慣といった中国の一般的な慣習が欠けている点も挙げています。さらに、地名が中国語やモンゴル語ではなくペルシャ語で表記されていることは、ポーロが中国語を習得していなかったことを示していると主張しています。ポーロが中国語を学ばなかった可能性については、ドイツの漢学者ヴォルフガング・フランケや、ナポリ大学の考古学者ダニエレ・ペトレッラが支持しています。彼らはポーロがペルシャ語の情報源を使用して『ミリオーネ』を執筆したと考えています。また、フランセス・ウッドは、ポーロが述べた歴史的な事実のいくつかが実際と一致しないことを指摘しています。たとえば、現在「マルコ・ポーロ橋」と呼ばれている橋のアーチは11個であり、ポーロが記述した24個ではないことや、ペルシャへの帰国の途中で出会ったモンゴルの王女ケケチンの名前が、『ミリオーネ』の中に記されているにもかかわらず、ユアン朝の文献にはその名前が登場しないことです。
『ミリオーネ』の信憑性を再評価するために行われた科学的な研究には、1945年の中国人ヤン・チーチウとホ・ユンチの研究や、1976年にフランシス・ウッドマン・クレイブスが行った中国とペルシャの資料を比較した研究が含まれます。さらに、1985年にヤン・チーチウが行った研究が、ポーロの中国滞在を証明する決定的な証拠と見なされています。フランセス・ウッドの疑問に対しては、デンマークのヨルゲン・ジェンセン、フィロロジストのイゴール・デ・ラチウィルツ(キャンベラ大学)、経済史学者ウーゴ・トゥッチ(ヴェネツィア大学)、漢学者リオネッロ・ランチオッティ(ヴェネツィア大学)などが反論を行っています。また、最近では、イギリスの歴史家スティーブン・G・ホーや、フランス・パリ大学ソルボンヌ校のフィロロジストフィリップ・メナールが、ポーロの地政学的知識が非常に特有であり、それが嘘であるとは考えにくいと指摘しています。ドイツの漢学者ハンス・ウルリッヒ・フォーゲルは、ポーロの主張を初めて欧州、ペルシャ、中国の資料と比較した大著を発表しました。
特に1945年のヤン・チーチウとホ・ユンチの研究では、ユアン朝の時代のいくつかの歴史的文書に、ペルシャのモンゴル大使館に関する記録があり、そこにはウラタイ、アプスカ、コジャという三人の大使が登場することが記されています。ポーロの言う「三人の大使のうち一人だけが生き残った」という記述は、ペルシャの同時代の歴史家ラシュイド・アル・ディン・ハマダニの記録とも一致しています。ハマダニはペルシャに到着したモンゴル大使館について言及し、コジャという大使とともにモンゴルの王女についても言及していますが、その名前は明記されていません。この情報は、ポーロが述べた内容と一致し、ポーロが実際に現地にいたことを証明するものとされています。
また、デンマークのヨルゲン・ジェンセンは、パドヴァの天文学者ピエトロ・ダバーノが『コンチリアトール・ディファレンティアルム』の中で、ポーロとの会話について記録していることに注目しました。ポーロは、インドネシアの海で見た長い尾を持つ星「袋の形をした星」を描いたと語ったとされています。天文学者たちは、ヨーロッパで1300年代末に特別な星の観測がなかったことを確認していますが、1293年に中国とインドネシアで彗星が観測されたことが知られています。ポーロが描いた彗星とその天文学的詳細は、ポーロが中国に実際にいたことを証明するものとされています。
イゴール・デ・ラチウィルツはフランセス・ウッドの本に強く反論し、ポーロの名前が中国の記録に登場しない理由について、ポーロたちが地元政府からほとんど重要視されていなかったためだと主張しています。彼はまた、ポーロが中国文化に無関心だった可能性が高いことを指摘し、当時中国はモンゴルに支配されていたため、中国の文化や言語に興味を持たなかったと述べています。したがって、ポーロがペルシャ語を使用していたのは当然であり、当時の「共通語」としての役割を果たしていたと考えられます。
イギリスの歴史家スティーブン・G・ホーは、「『ミリオーネ』に対する多くの批判は1600年頃から始まり、時代遅れである」と述べ、ポーロの物語が非常に正確であることを強調しています。「もしポーロが嘘をついていたのなら、彼は極めて精密で、信じられないほどの嘘をついた」と言っています。
ドイツの漢学者ハンス・ウルリッヒ・フォーゲルは2013年に『ミリオーネ』の詳細な分析を発表し、ポーロが中国の貨幣制度、塩の生産、貨幣の流通について非常に正確な記述をしていることを指摘しました。これらの記述は、ユアン朝時代の中国の文書や考古学的発見とも一致しており、ポーロがその情報を当時の中国に直接アクセスしていたことを示しています。
フォーゲルの2013年の著書は、初めて西洋と中国の資料を一堂に集めたものであり、経済学者マーク・エルヴィンはその序文で、ポーロの物語が「最終的に広く本物である可能性があることを示している」と結論付けています。
マルコ・ポーロの中国での役割
『ミリオーネ』で、ポーロは自分がフビライ・ハンの親友であり、助言者であったと主張しています。また、彼が「ヤンウイ(現在の楊州)」の町、そしてその後に「チンサイ(現在の杭州)」の知事であったと記されています。
「そして、この本で言及されているマルコ・ポーロ自身が、この町を3年間支配していました。」
この主張は多くの議論を呼び起こしました。
フランスの中国学者ポール・ペリオは、ポーロがヤンウイで政府の塩の独占を担当する役職に就いていた可能性を指摘しました。この役職は一定の重要性を持っていました。
イギリスの歴史家デイヴィッド・オー・モーガン(モンゴル史の専門家)は、ポーロが中国に実際に住んでいた可能性は高いが、中国での地位について誇張したか、虚偽のことを言ったと考えました。一方、ロナルド・ラザムは、このような誇張はピサのルスティケッロによって加えられた装飾であると信じていました。この立場を支持する理由は、当時のどの資料にもポーロが皇帝の友人やヤンウイの知事として言及されていないこと、さらには中国の資料にはマルコ・ポーロについての言及がないことです。
1960年代にドイツのハーバート・フランケは、元の文献に登場する「ポーロ」や「ボロド(鉄を意味するアルタイ語)」という名前が、モンゴルまたはトルコ系の人物に関連していることを指摘しました。
歴史家で中国学者のスティーヴン・G・ホーは、ポーロが自分の重要性を誇張したという考えに異議を唱え、次のように書いています。「よく言われるように…マルコは元帝国で非常に高い地位を主張したわけではない。」彼は、マルコが高位の大臣、ダルガチ、あるいは1万人を指揮するトゥメンの長官であると主張していないことを強調しています。彼はただ、カーンの使者であり、名誉ある地位に就いていたと述べています。ホーは、もしマルコがケシグ(カーンの護衛軍)であったなら、その主張は合理的だと考えています。ケシグは当時およそ1万4千人の兵士から成る部隊でした。ホーは、『ミリオーネ』の初期の写本が彼のヤンウイでの役割について矛盾した情報を提供していることを指摘しています。一部は彼が単なる住人だったと言い、別の一部は知事だったと言い、ラムジオ版の写本は彼が誰かの代わりに一時的にその役職を担当していたと述べていますが、すべての写本は彼がカーンの使者として働いていたことに一致しています。ホーはまた、多くの学者が中国の文献におけるマルコ・ポーロの言及を探す方法に異議を唱えました。彼は、当時のヨーロッパ人は姓の使用を軽視していたため、「マルコ」という名前を中国語で直接表記することは、彼が中国名またはモンゴル名を使っていた可能性を無視していると主張しました。
ただし、『元史』には、1274年に官僚サマンによって逮捕された「ボロ」(皇帝の宮廷の役人)について記録があります。この逮捕の理由は、彼が遊女と同じ側の道を歩いたことに対するもので、男性と女性は道を別々に歩くべきという規定に反していました。中国の学者ペン・ハイは、2010年の著作でこの「ボロ」をマルコ・ポーロと同一視しました。ボロは皇帝の命令で解放され、1275年春に現在の中国北東部の寧夏地域に転任されました。この日付は、マルコが第15章で述べている最初の任務と一致する可能性があります。
モンゴル帝国で外国人が一定の地位を得ることが不可能だと思われるかもしれませんが、いくつかの文書は、マルコが最初でも唯一の外国人ではなかったことを示しています。『ミリオーネ』第62章では、「マル・サルキス」(いくつかの写本では「マルサルキス」または「マサルキム」とも記されています)という名前の職員が登場します。彼はネストリウス派のキリスト教徒で、フビライ・カーンの命令で「チンギアフ(現在の鎮江)」の町の「支配者」だったと記されています。この人物の正体は長い間謎でしたが、「マル」はシリア教会で司教に与えられる尊称であり、「サルキス」は「セルギウス」を意味するとされています。実際、この人物は「馬薛里基斯」として地元の新聞『智順鎮江志』に登場しており、「第三等将軍」として記載されています。この新聞によると、馬薛里基斯は鎮江府で3年間「助手監督」として働き、その間に2つのキリスト教会を建てたとされています。鎮江府はマルコがいた楊州と隣接しています。
実際、フビライ・カーンが国内の事務で中国の臣民よりも外国人を信頼していたことは、十分に記録に残っています。
これらの推測は、サマンという皇帝の官僚が記録に登場することからも支持されています。彼はボロを逮捕した後、すぐに死去し、サマンの兄弟である湘衛は1282年から1283年にかけて楊州に転任されました。マルコ・ポーロは『ミリオーネ』の中で、1284年に杭州に転任されたことを報告しています。これらの異動が、両者の間でさらに対立を避けるためであった可能性があります。
もう一つの議論の余地がある主張は、次の通りです。第145章で、ポーロ家の3人が「サイアンフ(襄陽)の包囲戦で石を投げるマンガネルの建設について技術的な助言をした」と記されています:
「それから、二人の兄弟とその息子、マルコは『偉大な主よ、私たちの随行者には石を投げるマンガネルを作る者たちがいて、それによって市民たちは耐えられず、すぐに降伏するでしょう』と言いました。」
この主張は疑問視されています。なぜなら、この包囲戦は1268年から1273年にかけて行われており、マルコ・ポーロが中国に到着する前に終わっていたからです。襄陽を包囲したモンゴル軍には外国の軍事技師がいましたが、彼らはバグダッド出身で、アラビア語の名前で記録されています。イゴール・デ・ラチェヴィルツは、ポーロ家の3人がすべて現場にいたという記述がすべての写本にあるわけではないことを指摘しています。このため、「et lor filz meser Marc」というフレーズは後から追加された可能性があり、ニコロとマッテオがヨーロッパに帰る前にカーンに何らかの技術的、軍事的な助言を与えたのかもしれません。
経済史家マーク・エルヴィンは、2013年のフォーゲルのモノグラフの序文で、多くの手書きの写本が大きく異なっていたために生じた問題を指摘しています。例えば、マルコ・ポーロがヤン州で「政治的権限(seignora)」を行使したのか、ただ「滞在していた(sejourna)」だけなのかについては疑問が残ります。
1913年撮影のモンゴル貴族の女性
彼女がかぶっている伝統的な頭飾りは、既婚で高い身分を持つ女性の証とされる。
タタールの妻
一つの伝説によると、マルコ・ポーロは中国で皇帝の娘であるハオ・ドンと結婚し、1295年に彼女が最初のヴェネツィア帰還に同行したと言われています。ハオ・ドンは、1298年にマルコがジェノヴァ人に捕らえられたとの報せを受け、そのショックで自殺したとも伝えられています。しかし、この人物に関する記録や考古学的な証拠は一切存在しません。
ただし、マルコ・ポーロが亡くなった際には彼の財産がリスト化され、その中に「金の髪飾りに宝石と真珠がついている」と記録されています。この髪飾りは、「ボフタ」と呼ばれる、タタールの女性が結婚時に着用する頭飾りである可能性があります。この「ボフタ」については、旅行家のギウリェルモ・ディ・ルブルックなども言及しています。
結婚した女性が自分の頭飾りをマルコに贈ることは考えにくいため、学者たちはマルコがカタイに滞在していた時期に、現地の女性と実際に結婚していたのではないかと推測しています。この説を支持する証拠として、マルコ・ポーロの『ミリオーネ』第4章が挙げられます。この章では、皇帝の妻や妃たちがどのように選ばれるか、その長い「手続き」が詳細に説明されています。マルコによれば、選ばれなかった女性たちは貴族に嫁ぐか、宮廷で仕えることを学ばされるとされています。
この妻については、どの記録にも言及がなく、マルコがヴェネツィアに戻る前に亡くなった可能性が高いと考えられています。
マルコ・ポーロの胸像(アウグスト・ガンバ作, 1862-1863年)
彼を称えるために制作された彫刻作品。
1982年発行のイタリア1000リレ紙幣
マルコ・ポーロが描かれた紙幣で、彼の偉業を称えたデザイン。
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